まいにちショウアクのすけ

平日の日課として、書いて、書いて、書いて!

クロックムッシュ

爪のはらのピンク、そんな感じに桜が彩り、どの木もぱぁと枝を広げてバンザイの3月外れ。

僕と空海先生が初めて会ったのは2004年の春だったと思う。

「君さ、なに、コピーライターになりたいんだ?じゃあもっと日本語を勉強しないとだよ、これじゃ難しいよ〜?これね、アンケートの文章、意味わかんないもん」

空海先生から初めて僕に発せられた言葉はこれだったと思う。

(…うわ。なんだか、強烈だなぁ…なんていうか、ちょっと苦手だぁ…)

そしてこれが僕が初めて空海先生の感想だった。

空海先生。干場英男さん。
先生は日本有数の広告代理店で
登りつめ、MBAを持った元CD(クリエイティブディレクター)。
多分僕が初めて出会った当時「憧れの広告業界の人」だった。

先生は、その初授業で、各受講生を見事な言葉刃で、バサバサと切り落としていった。(中には崖から突き落とされた人もいた)

(こ、この授業は、取らないでおこう…)

そう思って、僕は窓の外、綺麗に咲く花たちを見ていた。そんな時、空海先生が僕たちに投げかけた。

「あのさ、アメリカンアイドル見てる人いる?」


へっ?と思った。

アメリカンアイドル、当時CS放送でのみやっていたアメリカの一般公募形の歌手オーディション番組だ。当時、凄く面白かった。

当時はあまり日本では知られていない番組だった。

(この人、この年齢でアメリカンアイドル見てるんだ、、、よく知ってるな、、、)

そう思って窓の外の桜から目線を先生に戻すと、これまた軽快な口調で見事に番組の面白さを語っていった。

「あの、サイモンていう辛口評論家いいよねぇ〜…もう悲惨でみてらんないようなやつもいてさぁ〜…あ、もう授業終わりだね。この授業取りたい人は、最後に受講カードだして。まぁ、別に強制じゃないからさ」

帰りのバスに揺れていた。
バスのなかで何と無く、先生の事を思い出していた。

(あの人はいったいどんな人なんだろう…)

空海先生の授業では時たま課題が出された。

ヘミングウェイ 老人と海の感想文、

心に残った言葉、

などなど。

毎回帰ってくる提出物には「意味がわからない」や「はぁ?」などの言葉が並んでいた。
僕は落第生という言葉がピッタリだった。

ただ僕は当時、悔しくて悔しくて、「なんであんなひどいこと書くんだ」と問い詰めてやろうと鼻息ふいふい、ある日の授業後、先生が開いていたお茶会に参加した。

僕のほかにも何人かの生徒がお茶会には参加していた。
各々席に座り、各々注文。
僕はアメリカンを注文した。

先生の番になる。

クロックムッシュちょうだい」

(なんだぁ?クロックムッシュって?)

僕は生まれて初めてクロックムッシュをその時見たのである。

「いい匂い…!なんて美味しそうな食べ物なんだろう…!」

先生の口に運ばれるそれに心奪われ
いると、先生は息もつかず話し始めた。

いろいろな話。
学生運動の話、
岡さんの話、
そしてアメリカの生活の話。

アメリカの話は、僕にはとても刺激的な、魅力的な話だった。

そして思った。

(僕は、クロックムッシュさえ知らない…

そんな僕が、世間知らずの僕が、反論したって、口喧嘩したって、この人に勝てっこない…)

小さい頃、僕はパン屋さんになりたかった。

その次はバスケット選手、

その次は大工、

そして
コピーライター、

漠然と、本当に漠然と
何かになれると思っていた。

僕はその時、初めて、生まれて初めて、何にもなれないかもしれないと思っていた。真っ黒の、絶望だった。

その時の僕の文章は、
いや、文章だけではなく、
その時の僕自身そのものが、非論理的で、読み手に不親切な、奇を衒うだけの(便所の紙にもならない代物)だった。

紙っぺらだった。




月日は経ち、就職活動が始まって、そしてあっという間に終わっていった。

空海先生の予想とおり、
僕はコピーライターにはなれなかった。

同期の、仲の良いメンバーは、広告代理店に就職していった。僕も受けた。が、落ちた。どれもこれもあれも、落ちた。悔しくてたまらなかった。

桜は散っていた。3月の終わり、寒々しい日だった。

僕は大学を卒業した。

僕はノベルティやアパレルの商品を制作するSPの会社に営業職で就職した。少しでも広告業界の近くで働きたかった。

僕の上司は
人殺しのような、
いや殺してるんだろうなっていうくらい怖い目つきをしたKさんだった。

しこたま怒られた。
やることなすこと怒られた。

小銭をポケットに入れるな、

メールはワンツーで返せ、

お前の営業スタイルはお通夜営業か、

自分で考えろ、聞くな。

分かりやすく説明しろ。端的に。

爪切れ。服装整えろ。ダサい格好するな。

365日、365回以上、怒られた。
一時、話かけられるだけで、胃が痛くなった。

そんな日々が一年続いた。

少しずつ怒られなくなり、仕事も自分で回すようになったとき、仕事が楽しくなってきた。楽しくてたまらなくなっていた。

少しずつできることが増えるたび、僕は、何かになれたんじゃないかと希望を持って、嬉しく思っていたのだ。

そんな当時、世間ではmixiがまだ一般的にやられていて、その中で空海先生の名前を見つけた。

リベンジしたいと思った。

分からないけど、今の僕を書いて、ありのままを、なるべく空海先生に分かりやすく伝わるように書いて、コメントをもらえるだろうか。

イイとか、お褒めの言葉はもらえないかもだけど、コメントが帰ってきたら、、もう一度、広告制作の道を、リベンジする糧になるんじゃないかな、、、そう思った。

それから時間を見つけて、なるべく間をあけず、定期的に日記を更新した。

そして、3ヶ月くらい続けていたある日、先生からコメントがあった。

「なんか人間がまっすぐになったんじゃないの?」

嬉しかった。褒められないにしろ、空海先生がコメントを残してくれたことが嬉しかった。キーボードをうち、わざわざコメントを残してくれたことが嬉しかったのである。

それから、紆余曲折、転職のすえ、僕はいまの会社に入った。今はまだまだ半人前だけれど、いつか空海先生に「いいね」と言われるようなものが残せるように精進したいと思う。

そして、僕に絶望と希望を与えてくれた空海先生といつか、

クロックムッシュを一緒に食べながら、お茶会ができたらなって思う。

 

本当に、そう思う。

汽車を届ける

「すみません、今日は早めに帰ります。次があるんです」

 

「はぁ珍しい!まだハンバーグ、全部食べてないですよ?珍しいですね、浦川さん。」

 

「あ、はい…残してごめんなさい。」

 

「いえいえ!…なにか、その、大事な用事なのですか?」

 

「あ、何かあったわけではありません。今日は会社関係の人のご自宅でたこ焼きパーテ

ィをする予定なんです。そこに『ソウスケ』くんという、これまた会社の方の息子さん

がいらっしゃるので、会いに行こうと思っているのです。」

 

「なるほど。いいですね、小さなお子さんですか?いいですねぇ。

今日から12月ですものね。クリスマスプレゼント、買って行かれるのですか?」

 

あぁそうか、今年ももう残すところ一ヶ月か、と思った。

 

店を出て、周りを見回すと、赤と緑、クリスマス装飾があたりにちらほらと見ることが

できる。(初めて会う記念でもある。何か、プレゼント買っていってあげよう。)

 

通りに面したおもちゃ屋に入る。

店内にはオルゴール調のジングルベルが流れていた。

オルゴールかき鳴らすジングルベルのなか、プレゼントを買い、少し足早に、パーティ

会場がある阿佐ヶ谷に向かった。

 

阿佐ヶ谷の駅から会場へと歩く途中、釣り堀があった。

それをみやると、水面に西日がキラリキラリと反射して眩しかった。

よく見ると、釣り堀にはカップルがいた。

彼女が釣り上げた魚を網で彼がすくい上げているところだった。クリスマスが、近づく

と、至るところカップル。

 

釣り堀にもカップルか、と思った。

すくい上げる彼のへっぴり腰に少し、僕はニヤリして会場へ、また急いだ。

僕がついたとき、ソウスケ君はまだ来ていなかったが、少しして、お父さんの由良さん

に抱っこされながら、彼がきた。

 

とても小さく、全てが丸でできていた。

パタゴニアのフリース、リーのジーンズプリントがされた服を着ていた。とてもおしゃ

れであり、そして暖かそうな格好をしていた。

 

彼の格好のそのデザインと暖かさが由良さんと奥さんの

愛情の誠実さと深さを物語っているような気がした。

 

「ソウスケ、これどうぞ。プレゼントです」

 

「あんさー、ちょーこれー、開けー」

 

彼は3歳で少し喋れた。

 

渡したプレゼントの箱をすぐ僕にまた渡して、開けてほしいと願ってきた。

 

僕はプレゼント包装を開けるのが下手である。

いつものようにビリビリ破き、箱も粉砕して、

彼へのプレゼント「機関車トーマス」を渡してあげた。

 

「おー!こーさーえんしゃー?」

 

「そうそう、電車、厳密には石炭で走るから、汽車かな。」

 

「おー!」

 

彼は電車を持って、地面に起き、手でそれを走らせた。

そしてカメラアングルをローにするように、地面にべったり顔を付け、

目の前でカーブさせたり、スピンさせたり、していた。

子供のアングルというものがあるのだなと思った。

 

彼もいずれ年頃になる。そして大学生になり、旅に出たりするかもしれない。

アフリカやインドの汽車に乗り、手には沢木耕太郎さんの本なんか持って。

旅で出会う食べ物、文化、女性、それらが彼を成長させていき、

彼のその甘く輝くクリームパンのような手も、いずれはさくっりしょっぱい

かっぱえびせんのようになり、年をとっていくかもしれない。

 

僕にもこんな時があった。

しかし果たして僕は、彼の今の成長スピードには勝てないにしろ、

この一年で何か成長できたのであろうか…

 

「ねー、あんさー、こーいっしょー!」

 

「お、俺も汽車で遊んでいいのかい?ありがとうございます。」

 

2人で沢山遊んだ。夜も更けて、ソウスケは先に眠くなり帰って行った。

僕もお酒をかなり飲み、気持ちよくなり、帰った。

 

帰り道1人になってから、今年あった出来事を心の中で、

なるべく丁寧に撫でていく。

 

何があったか、どんなことだったかを指で撫でながら、送っていく。

オルゴールが音を奏でるのように思い出をはじく。

 

撫でながら、僕は、酒で気持ちよくなって歌う。

 

ジングルベール、ジングルベール、

クリスマス〜♪

 

と。

 

ソウスケさん、また会いましょう。

 
 
 

ひかる

六本木には地下鉄で向かった。


休日ではあったが、消化しききれなかった仕事を

上野のオフィスで片付け、地下鉄で向かう。

日比谷線から六本木通りへとあがる。

辺りは暗く、寒かった。

 

時期は年の瀬で、街は慌ただしく、赤青黄色、大小様々なネオンが光る。

早歩きの人が行き交う六本木の街で、

僕は少し晴れやかだった。町並みのせいで悦に入っていたし、

消化した仕事がスッキリと排泄されたような気分でもあったし、

なによりも、この六本木での予定が僕を晴れやかな気持ちにさせていた。

 

僕にはあまり縁もゆかりもない街だけれども、

今日は生駒さん、津留さん、そしてヨーコさん、僕の妻とで

アビーロード」というお店で、僕と生駒さんの大好きな

ビートルズのコピーバンドのライブを見に来ることになっていた。

 

六本木通りから、ミッドタウンの方へ向かい、少し手前の

街路を曲がり、地下に潜ると「アビーロード」はある。

毎日ビートルズ好きの観衆とバンド達が集まり、往年の名曲の生ライブを聞きながら、イギリスの郷

土料理とその土地のお酒を楽しむという、何とも僕に取っては、たまらない場所であった。

 

「なんや、変わらんな」と生駒氏が笑顔でつぶやき、

 

「本当変わらないよねぇ〜…また忙しくしてるんでしょう?」

と津留氏が笑顔で投げ掛けてくれる。

 

その間で、ヨーコさん《僕の妻》は高笑いをしながら、キョロキョロとしゃべり手へと目をやる。

 

席について、各々食べ物と飲み物を食べる。

津留氏、僕はビールを頼み、お酒の弱い生駒氏はジムバック。

 

ヨーコさんはソフトドリンクを頼んだ。少し落ち着かない様子だった。

 

(付き合わせちゃったかな…乗る気だったと思うんだけど…)

 

ほどなくして、料理が運ばれる。

その間僕たちはたわいもない仕事の話や、昔話、

そしてビートルズの話をした。ビートルズの話は

僕と生駒さんがして、津留くんが笑顔で

相づちを打ってくれるというような構図だった。

 

その間も、ヨーコさんはニコニコしているだけで、

手元の紙製のおしぼりを閉じたり、開いたり、

丸めていたりするだけだった。

 

バンド達がスタンバイをする。

お決まりのナンバー「she love you」から始まり、

初期の曲を奏でる。

 

店内は満員で、最前列の女性は

胸に手を当て、まるで本当にそのステージに

熱いまなざしを送り、彼女に習うかのように、

他のみんなも、ステージに目をやる。

 

僕は、間、間でヨーコさんをちらちら見る。

表情は柔らかで楽しそうである。けれど、いつもと違う。

 

(こりゃ…なんかあったな…あとで聞かなきゃ…)

 

 

ライブは30分程度で一度小休止。バンド達は

控え室に一度戻り、その間はBGMが少し流れ、

店内は静かになる。

 

皆ステージのほうから、カラダを戻し、食べ物や、飲み物のほうへと

カラダを向ける。にこやかに笑いながら、皆しゃべり始める。

僕はそれと同時にカラダをヨーコさんのほうへと向けた。

他の二人には気づかれないように、語りかける。

 

 

「ねぇ…ごめん…ちょっと、イメージと違ったかな?」

 

 

「え!…ううん、とっても楽しいよ」

 

 

「そうか、それならいいんだけど…なんか変だなって思って」

 

 

「ん〜…そうかな?」

 

 

「そうだよ、なんかあったんでしょう?分かり易いからね、ヨーコさんは」

 

 

「そうかな…あとでしゃべるよ」

 

 

「…えええええ…なになに…そんなこと言われちゃったら
 気になって仕方ないよ。ステージじゃなくて、ヨーコさんのほう
 見ておこうかな…」

 

 

「いや〜…いまは言いたくない」

「えええええ」

「わかったわかった!!いま言うけど、びっくりしないでよ」

 

「うん」

 

「二人にも内緒」

 

「うん」

 

代わる代わる耳元を見て、ひそひそ喋るのをやめて、

一度を顔を向き合う。

 

そして、彼女が人差し指で僕を呼ぶ。

僕はまた彼女の口元に耳を近づける。

 

「…あのね…赤ちゃんができたの、私たちの…二人の子供だよ」

 

あたりが暗くなる。

 

皆ははステージへとカラダを向ける。

僕たちだけが向き合っていて、彼女は笑顔で、僕は驚いた顔で。

 

ミラーボールがゆっくり周る。

反射で、丁寧に、こぼさす光り始める。

それはキレイで、ブリティッシュタイルで敷き詰められた店内を舐め回す。

ステージで、ボーカルがマイクで語り始める。

 

「皆さん、ここからのステージはリクエストを受け付けます。テーブルの紙に
 歌ってほしい曲を書いて、ボーイたちに渡してください」

 

 

僕はそれを聞いて、驚いた顔のママ、

 

紙を手に取って、ペンを走らせる。

 

 

僕の大好きなジョンレノンの「Mother」をリクエストしたくて、ペンを走らせる。

途中笑顔になって、ペンを走らせる。

 

ジョンと一緒で、
僕は、ヨーコのために、この曲を送りたいと思った。

京浜東北線で揺られ帰った。

途中で生駒さんとは分かれ、
電車で二人きりになるまで上の空だった。
そのせいだったのか、少し飲み過ぎていて、
電車の揺れがゆりかごのようで、心地よく、
気を抜くと眠ってしまうような気がした。

 

「ね、驚いてるでしょう?」彼女が聞く。

「驚いたよ!あ、名前は『ひかる』にしよう」

「え!はや!まだ男の子か、女の子も分からないのに!」

 

「どっちでも、大丈夫な名前だよ!『ひかる』
 うん、いいじゃないか。それに、浦川家の子供の名前は
 最後に「る」が付くって決まっているんだから」

 

「確かに、あはは、「わたる」に「とおる」に「すぐる」だものね」

 

「そうそう、だから、ひかる、浦川ひかるがいいじゃないか…」

 

大田区は大森の駅に付き、タクシーに乗る。

歩いて帰るのはカラダに負担を掛けてしまうかもしれない。

車中では特に話さなかった。

 

けれど、前を向いて二人で笑っていた。

外を見やると、車は第一京浜沿いの道にさしかかっていて、オレンジ色の

街灯が整列して、等間隔で、通り過ぎていく。

 

丁寧に、目で追いながら、僕はいつかの「ほおづき」を

思い出して、「俺も父親になったよ」と窓に向かって、つぶやいた。

 

 

電信柱の話

3月の始め、オフィスに行くと、僕の席の近くに電信柱が立っていた。

いや、電信柱のようにひょろっとした、背が高い男性がいたのである。

綺麗な白シャツを着ていた。

ズボンはローライズ、タイトなチノパンで、彼の直線体格を強調していた。

そして、僕たちのオフィスでは珍しく、ジャケットをきている青年。

特に挨拶をするわけでもなく、時期も時期ということで、新入社員の方かなと思い、パソコンに向かう。

その日はある案件の打ち合わせがあり、プロデューサーの方と外出する予定だった。

待ち合わせ場所のオフィスの入り口付近にいくと、

あれま、電信柱が立っている。

 

紹介をされた。

彼は我が社の撮影部門のアソシエイトプロデューサーで、インタラクティブ部門の研修という形で半年間、

僕たちのオフィスにきた、名前を『津留(ツル)』という青年だった。早生まれの25才。僕とは社会人同期だった。

 

シュッとしていた。

プロパーの社員。シュッとしている。バックは革張りのビジネスバック、ジャケット、革靴。

こちらといえば、高校時代、修学旅行に行く時に『べべ(新品)で行きんしゃい』と婆さんに

買ってもらったリュックを背負い、メキシコ人ハーフの芸人そっくりの口ヒゲを生やし、

周りには中学生の指定靴みたいだと言われるニューバランス。僕とは、、違うではないか。

 

ここは舐められないようしっかりとした挨拶をしなくてはいかん。

 

バシッと決めたろう。

 

意を決して挨拶をした。

『ウヘヘ、あだ名みたいな名前だね〜よろしぐぅ〜(揉み手スリスリ)浦川だよぉ〜、よろしぐぅ〜』

『よろしくお願いします、浦川さん!』

 

 

完敗である。

 

喋り方も落ち着いていて物腰も柔らかい。そして最後の『!』にさわやかさがあるではないか!
なんとしっかりとした青年なのだろう。こんな青年がいるなんて我が社も安泰だぁ〜、うん。

彼とはその日打ち合わせをした案件を一緒にやることとなった。

3月から9月までの比較的長期的な案件だ。

それはちょうど彼の研修期間と重なっていた。

僕はサイト制作のディレクションを担当し、彼がお金周りの管理、撮影まわりの手配などを行った。

具体的な内容は書けないけれど、一緒に大阪に行ったり、撮影をしたり、

色々とてんこ盛りな半年間だった。夏真っ只中の時、山場を迎えた。

 

比較的Webの制作期間はなく、お互い何日も徹夜をするような生活になった。

しかし楽しみもあった。ちょっと贅沢をしようと、わざわざオフィスのある天王洲から六本木にある中華屋へ弁当を発注したり、新宿にある文壇バーにいったりした。朝方遠くのファミレスまで歩いていったりした。銭湯に行こうと計画して、結局二人とも疲れ果て、寝過ごしてしまったりもした。

 

彼は決して、僕とは違う人間ではなかった。僕と同じように、

話すのが好きで、萌え系アニメが好きで、シャレ好きな今時の男の子だった。

彼は見た目通り、電信柱が、発電所から各家庭まで電気を橋渡しするがごとく、

僕たち制作陣営の橋渡しを、雨風にもびくともせず、安定的に、そして少し寂しそうに、

しっかりと立って遂行してくれた。

最後のほう、僕が体調を崩し、迷惑かけてしまったこともあった。とても恥じている。

最後の日、僕と会社の社長、そして津留くんの三人で送迎会をした。

帰りは大井町から天王洲の途中まで歩いて帰った。

その際、不思議な体験もした。(この体験はまた今度書きます)

帰り際、川にかかった橋の上、大声で叫び、お別れした。

もう風が冷たかった。夏が終わっていた。僕たちは夏を乗り切ったのである。

 

 

 

次の日、会社に出社する際に、

よし、とりあえず津留くんとオフィスに面した川辺で一息入れてから仕事をしようと

考えながら歩いていた。

 

駅の信号待ちで立ち止まった時、

あぁ津留くんはもういないのか、

と思い出した。

 

 

辺りを見回した。

 

天王洲の街は美しい。

都市化計画で電線は道に埋めら、電信柱はほとんどない。

 

 

美しいベイサイドビューが広がっている。

 

綺麗に整えられた街だなと思った。

信号が青になる。

 

それと同時に、僕は歩き始め、

 

 

それと同時に、なんてつまらない街だと、思って項垂れた。

マキロンと一緒。

「すみません!広尾のこの住所までお願いします」

 

恵比寿駅前でタクシーを拾う。

前の予定が長引き、恵比寿の駅に着いたのが16時57分。

高校時代の旧友、北条の結婚式二次会は17時から。

つまり僕は気が気でないくらい、急いでいたのである。

北条マサガス、通称マチャが結婚した。彼は僕の高校時代の友の1人で、

今年で付き合いは10年になる。

 

恩人とも言える。彼は薬剤師で、

今年の8月、僕は体を壊し薬の副作用で七転八倒していたとき、

彼のおかげで命拾いした。

 

彼の的確な指示のおかげで、敗血症になり命を落とさずに済んだ。

広尾、17時4分。会場は遊歩道の先にあり、少し手前でタクシーを降りた。

顔を出し始めた冬木立が、広尾の華やかな街を丁寧に滑っていた。

走った。走りながら思った。

マチャが結婚するなんてこと考えたことなかったな、と思った。

彼と出会ったのは高校入学式だった。天然パーマで、

眠そうな目、がっちりとした大きな図体。新入学のクラスで目立っていた。

しかし授業が始まりすぐ分かったのだが、

彼は非常に優れた頭脳の持ち主だった。頭が良く、成績は常に上位だった。

 

彼もバスケット部に所属していた。彼のプレイスタイルは一言で言うと

「アグレッシブ」だった。

 

今でも印象的なのは、彼のライン際のプレイだ。

彼は必ず相手がファンブル(取り損ねた)したボールを、

一心不乱に体ごと飛び込み、取りに行く。取れないと分かっていても、

必ず、飛び込んだ。

 

大抵、観客席や壁またはネットにぶつかり、大きな音とともに、

転げ落ちる。そして「あいてててぇ」と少し戯けた表情で、

傷だらけで、コートに戻ってくる。

 

「まちゃ、あぶねぇよ、馬鹿だなぁ」

 

コートに戻ってくる彼にいつも言った。

そう、馬鹿だったのだ。

僕も、マチャも。

彼とはバスケットの思い出よりそれ以外の事の方が多い。

女子校に自転車で突入し卑猥な言葉を連呼したこと。

怪しいビデオを扱っている、何故かインターホンを押さないと

入れないビデオ店「キリン堂」への購入旅行。

 

高校の周りに何もなく、わざわざ自転車で30分かけて、

隣町まで牛丼を食べに行ったこと。

 

落ち込む部長を元気つけるために、内緒で用意し、

校庭の裏で薪を起こし、焼き芋パーティーをしたこと。

 

オーストリアからの全く日本に興味のない留学生クリスとの珍道中。

アダルトビデオの裏の説明文を誰が一番叙情的に読めるかの朗読対決。

語り尽くせない。

僕たちはどこに行くにもマチャの自転車に二人乗りして向かった、

どこにでも行けると思っていた。青春だった。

 

そして加えて僕たちは大抵の高校生がそうであるように、

童貞をこじらせ、イケメンを憎んでいた。

 

「ちくしょー、俺一生懸命勉強して、

    いい大学入って、いい会社入って、綺麗な嫁さんもらってやるんだからな!」

 

「おう!マチャよく言った!そうだな!俺もそうするよ!」

 

ママチャリに二人乗りしながら、冬の寒さ厳しい熊谷の街で、

僕たちは誓った、いや、そう願った。

マチャが、結婚をする。

会場に着くと会は始まっていて少し緊張した面持ちで

マチャがみんなに挨拶をしている。挨拶が終わる。

会は非常に和やかで、いいものだった。

 

「まちゃ、おめでとう。」

 

「お、お、ウラちゃんありがとう。元気そうでよかった」

 

「うん、まだまあまあかな。まちゃ、よかったなぁ。

    宣言通りじゃないか。いい嫁さんだ。」

 

「次はウラちゃんだよ」

 

「そうだなぁ〜。頑張らなきゃだなぁ」

 

彼はあの猪突猛進、ボールに向かっていた時の彼と全く変わっていなかった。安心した。

クイズ大会になった。景品をかけて新郎新婦にまつわるクイズに答えるというものだ。

新婦のマキさんにまつわるクイズで、マキさんの小学生の時のあだ名は?

という問題が出た。

 

答えはマキロンだった。

 

いいなぁと思った。安心をした。

これからも、マチャは続けられる。

あのコートから飛び出して、取れるか分からないような

ボールにも食らいつくプレイを、人生においても、続けられる。

 

どんなに傷だらけになってもマキロンがあるなら大丈夫だ。

すぐ治るじゃないか。

そしたら、僕も言いたいと思う。

 

「マチャあぶねぇよ、馬鹿だなぁ〜、でもカッコイイんだよな、それ」

 

と。

 

誰がために

「ところで、最後に聞きたいのだけれど、浦川くん、きみの文作の
 師は誰だと思う?」

 

「あ、はい…帆士ハルヨだと思います」

 

「えっと…ごめんなさい、私不勉強かな。

 その作家さんは初めて聞くな。随筆家さんか、なにかかな?」

 

「いえ、違います。僕の祖母です…」

 

喫茶店の外では、仮装をした若者たちが楽しそうに笑っていて、賑
やかだった。花束を持った女性がニコニコして、こちらを見ている。

 

ウインドに映った自分の顔を見ているようだった。

祖母は、もともと字が書けなかった。読むこともままならなかった。

そんな祖母が、字を覚えるきっかけになったのは、小学生になる僕

が祖母の元を離れ、埼玉の北部に引越すことになったときだ。

 

「航と手紙で、やりとりなんかできたらいいのにね…

 そうだね、航、一緒に字の勉強しようか?!」

 

「うん!!」

やりとりは一週間に一回程度。

最初はお互い平仮名ばかり。

句読点というものも知らず、お互い全くもって読みづらい手紙を送

りあっていた。僕とは違い、すぐに祖母の手紙は、上達していった。

手紙はとっておかなかった。

毎週くるものだから、有る程度溜まると、捨てていた。

今でも、それは後悔しているが、当時それは、捨てるのを厭わない

ほど、日常に根ざした行為だった。

 

祖母の文体は、あまり難しい言葉は使わず、非常にテンポを気にし

た、口に出して読んだ時に、気持ちのいいところで文章が終わるよ

うに調整されたものだった。

 

言い換えや、ギャグも多用していた。

そして、読んでいて暖かくなれる文章だった。

手紙のやりとりは、中学時代くらいまで続いていたが、近くに祖父

母が引越したこともあり、いつの間にかなくなった。

 

それからは、家が近いこともあり、

僕はよく祖父母の家に遊びに行った。遊びに行くと、僕の大好きな

エビフライ、太巻き、スアマを沢山作って振る舞ってくれた。

 

新しい服も買っていてくれた。毎回プレゼントしてくれた。どれも

流行おくれのデザイン、着るととても着心地の良い、暖かい服だっ

た。風邪を引くと困るから、と祖母は言ってくれた。

 

泊りの日は決まって、朝早く起き、祖母の若い頃の話を聞いていた。

祖母も年をとっていたせいで、何度も同じ話をすることがあった。

 

そんな祖母を母方の姉家族は、全く、といった感じで飽きれて、忌

み嫌っていた。

 

「また婆ちゃんが本当か、わからない話をし始めたぞ」と。

 

僕は楽しかった。面白い小説や映画は、何度見ても面白いというこ

とと同じ感覚だった。飽きが来なかった。

 

「航、最近私、これ聞いている。いいよぉ〜」

 

宇多田ヒカルのCDを手渡された。

 

「この子、自分で歌詞を書くんだって。素晴らしい言葉使うんだから」

 

「へぇ、聞いてみるよ。ありがとう」

 

僕と祖母は宇多田ヒカルさんの大ファンになった。祖母は年甲斐も

ないと思われると恥ずかしいからといって、必ずヘッドホンで曲を

聞いていた。お尻をフリフリしながら、聞いていた。

 

そんな祖母をみて、僕はゲラゲラ、ゲラゲラと笑っていた。

 

祖母は時代劇が好きで鬼平犯科帳が特にお気に入りだった。

いつも古い小さなテレビでみていた。

そのテレビの小さな画面で、鬼平が大太刀まわりをしているのをみ

ると、なんだか鬼平も狭っ苦しいと感じてるじゃないかと思うくら

い、小さなテレビだった。

 

だから僕は、新しいのを買いなよ、金には困ってらんでしょ?

付いてって、いいのを見繕うよといって

 

2人を家電屋まで連れて行った。色々僕は店員と交渉し、

薄型の大型テレビを決め、あとは会計だけとなったときに、

僕はトイレに行った。

 

トイレから帰ると、トイレの前で祖父母がニコニコして待っていた。

どうした?と声をかけると、

「じいちゃんと相談して、テレビはやっぱりやめた。その代わりにこれ、航に」

 

といって、僕が始めた一人暮らしのお祝いに炊飯器を買ってくれていた。

鬼平には、もう少し我慢してもらわなきゃだなと僕は思った。

僕が大学を卒業し、就職をして初めての夏だった。

祖母の肝炎が、癌化した。

定期検診で発覚し、すぐさま僕と母が病院に呼び出された。

医者が言うには、手術が1番確実だが、年齢も年齢なので手術には
耐えられない。

放射線治療か、抗がん剤投与をしますとのことだった。

診察の終わり際に祖母は言った。

「体はつよいんです…他のより、断然…強いと思います。

先生、お願いします。切ってください。私はまだ死にたくないです!」

医者や母は反対した。

だが、祖母は聞かなかった。頑固なところのある九州女が祖母だった。

僕はその時、その発言にいたたまれなくて、祖母の手をそっと机の

下で握ろうとした。握ろうとして、祖母の左手の甲触れたとき、そ

の手がかすかに震えていたのを感じて、僕は手を引っ込めた。

 

祖母のその恐怖していることを悟られまいとする努力を、無駄にし

てはならないと思い、僕は手を引っ込めた。

手術は大成功だった。

祖母は完全な退院はできないにしろ、一時帰宅を許された。

そのお祝いに2人で、近くのスーパーで寿司を買って帰った。

その時、祖母から手をつないで帰りたいと言われた。

恥ずかしかったけれど、僕は、何も気にしていない様子で、いいよ
と言って、繋いだ。

とても冷たい手だった。

 

もう1月になっていた。

門松を片付けていない家が、ちらほらあって、2人でその置いてけ
ぼりの門松を数えながら、帰った。

「もう、自宅療養にきりかえましょう」

医者から死の宣告がされた。

いっときは良くなった祖母だったが

その時は痩せ細り、腹水もたまっていた。妊婦のように、腹が膨れ
ていた、もう歩けなかった。

しかし祖母は頑くなだった。

「まだ治るはずだ、まだ大丈夫!

私は退院しない!!」

そう叫んだ。

その場に居合わせた僕は

居た堪れなくて、ボロボロ泣いた。

そして感情が高ぶって、

「婆ちゃん!しっかりしてくれよ!」と叫んでしまった。

叫んだあと、泣きながら、祖母を見た。

祖母も泣いていた。

ボロボロボロボロ、大粒の涙を流していた。

祖母が泣いているのをみたのはそれが初めてだった。

悲しいというより、悔しかったのだと思う。

退院が迫った金曜日の夜、例のように僕は飲み歩いていた。少し忘
れたかったのかもしれない。

電話がなった。病院からだった。

祖母が危篤だと告げられ、

僕は急いでタクシーに乗り、祖母の病院まで急いだ。

婆ちゃんは良く頑張った。

仕方がないんだ、仕方がないんだ、

そう心に言い聞かせながら、僕は病院に向かった。

祖母の手を強く握った。

本当に苦しそうだった。ゼイゼイと息をしていて、意識も朦朧とし
ていた。

僕は早く、楽にしてあげたいと思った。

すると、祖母が目を開け、

そして小さな、本当に小さな、かすれた声で、僕に、ニコっとして
、言った。

「航、もう、いってもいい?」

…そうだ、そうだった。

婆ちゃんは、僕のために、生きてくれていたんだ…

そう、気付いた。

何時でも、どんな時でも、僕のためを思って、生きていてくれたの
だ。

あの手術を強行したことも、

退院を拒んだことも、

エビフライも、ドジャースのジャンバーも、スアマも、楽しい昔話
も、宇多田ヒカルも、全部。

僕のためだった。

ボロボロになりながらも、

そこに居たかったのではなく、

居なくてはならないと

思っていてくれたのだと。

そう気がついて、僕は頷こうとした。

もういいよ、ありがとうと言おうした。でもできなかった。

ただただ、オイオイ泣きながら祖母の顔を見るしかなかった。

それが祖母の最後の言葉となった。

土曜日の朝、祖母はゆっくりと大きく息をはいて、旅立っていった

「後日、祖母の家を片付けにいきました。まぁ家は綺麗に片付いて
 いたので、片付けというよりは、思い出を漁りに行くような形だっ
 たのですけど。で、祖母が昔から使っていた机があって、その引き
 出しの奥にその最初に話した手紙が入っていました。僕が送ったも
 のです。懐かしくて読んでいると、それとは別に、チラシが沢山入
 っていたんです」

 

「チラシ?」

 

「はい、チラシです。裏面が白いチラシです。

 そこには、祖母が僕に送った手紙の下書きがされていました。

 祖母は字が書けなかったので、

 そのチラシに、一文字一文字、練習をしながら書いていたようでし
 た。文章の内容も書いては消し書いては消しを繰り返していたよう

 です。僕は泣きました…」

 

「なるほど…確かにうれしいですね…」

 

「いえ…違います。確かに嬉しかった。

 僕との手紙を大切に思ってくれたのは嬉しかったです。でも違います。

 僕が泣いたのは、それが原因ではありません。

 …どの下書きにもある言葉が一度書かれては、消されていたんです。

 「寂しい」と「会いたい」という言葉です。そんなこと一度も手紙には

 書かれてはいなかった。その強がりに…涙したのです。」

 

少し間を置いて、喫茶店を後にした。

 

「今日は、なんというか、いい話を聞きました。」

 

「暗い話をして本当にすみません…」

 

「いえ!そんな風には思っていませんよ!さぁ浦川さん、行きまし
ょう。外は寒いですよ。」

 

寒かった。外はもう暗かった。

街灯がぼんやりとオレンジ色の灯りをともして、寂しく立っている。

僕はポケットに手を入れながら、それを見上げる。

 

ほおずきに似ていると、思った。

一皮むける犬

犬を飼いたいと言い出したのは母だった。

反対した。父も仕事で家にいないのはもちろん、母も雑司が谷教育委員会

働いていて、一日の大半、家を空けている。

 

そんな状態で犬なんて飼えるわけないやろ、やめときなさい。大変なんだよ、

犬っていうのは。朝夜に散歩、いけんでしょう。

早くに家を出るのだから、無理でしょう。まぁ、やめときなさい。

 

反対した。

 

「わかったよ…ただ、一度でいいから見に行って欲しい。

ほら劇場通りの横にペットショップあるでしょう。

そこにいるトイプーちゃんなんだけど、見に行ってよ、ね、いいでしょ。

見に行くだから」

 

と半ば強引にペットショップに連れていかれ、

そのお目当てのトイプードルを見に行った。

 

父はくだらないといったそぶりで、ついてこなかった。

他の子犬たちが暴れまわるショーケースのなか、小さな窓の近くに、

ちょこんと座った情けないプードルがいる。

 

情けない顔をしていた、なんとも不安そうな目つきで、タレ目、

ムクムクした口元が特長の犬だった。

僕は、その犬をみた瞬間、母がなぜそんなにこの犬を飼いたがっているのかがわかった。

婆さんにそっくりの顔だった。

母の、母だ。

僕を育てくれた、婆さん。
帆士ハルヨその人にそっくりだった。

抱っこしてみますか?

店員の女性がアルコール消毒液が入ったポンプを持って、話しかけてきた。

 

その消毒液を手につけ、手を揉み揉み。その犬を抱っこしてみた。

毛並みによって、柔らかく丸いその身体が、抱っこすると、

意外と華奢なことに気づいた。そしてちょっと震えていた。

 

ペットショップから家までの道、ふと婆さんの事を思い出した。

 

婆さんが、金太郎のマークが書いてある、焼き栗を居間のコタツで、

剥いては食べ、剥いては食べ、していた事を思い出した。

 

そして、食べながら、よく屁をしていたなぁと思い出した。

「名前はマロンがいいな。マロって呼んだりもできるし、あいつはお似合いの

名前だと思う。父さんは説得しよう」

 

帰りに僕が、言うと、いいね、いいねと母が言った。そして。
ちょっと間をおいて、いいね。とまた言った。喜びを頬張っているのを

隠せない様子で、母は言った。

 

そしてマロン(マロ)がうちにやってきた。

あんなにペットショップで大人しかったくせに、家に来た途端、暴れまわった。

 

タオル、靴下、ハンカチ、なんでも噛みまくり、振り回し、走り回った。

そしてお気に入りの卵形のおもちゃを舐めまわし、テーブルに乗り出し、

僕のおかずを、隙さえあればと狙ってくるとんでもない犬だった。

 

まったく、食い意地がはってやがる。婆さんにそっくりだよ本当!…
ちょっとだけだぞぉ…もう…何?もっと?…仕方ないなぁ〜…

 

と激甘の激甘で、僕はしつけている。

弟もしかり、マロンが来てから、帰省したとき、マロンがいるリビングで

過ごす時間が増えた。部屋から中々出てこない弟がである。

 

1番びっくりしたのは、父である。
毎朝、早く起き、マロンを散歩に連れて行く。
自身の昼寝の際、顔をマロンに舐めまわされても、まったく怒らない。
むしろ、ニヤニヤしている。

この前などは、
「俺はこれから、マロンのことをマロん坊と呼んで行こうと思うのだが、

どうだろうか?」

 

と真剣な顔で、相談してきた。勝手にしてくれ。

つい前まで子犬だったマロンは、いまではすっかり成犬だ。

この前、久しぶりに帰ると父と母が、ハワイ旅行の計画を立てていて、

何でそうなったか知らないが言い争いをしていた。

 

するとマロンがむくっと起き上がり、
二人の間に入り、二人を交互に見つめ、ぺろぺろと腕を舐めていた。

 

「ほれ、婆さんが仲良くしろよだとよ」

 

と僕は茶化した。

 

そして心の中でマロンに

父さん、母さんをよろしく頼みます。お前も一皮、

いやマロン(栗)だから一殻むけたな。

と賞賛の言葉を送ってやった。

 

秋。栗が甘く生る季節はすぐそこである。